ブログを書くぞ!と意気込んだ矢先、養父が死去しました。今回からしばらく養父の死去についてまとめます。
養父母と私
私は2歳頃、母方の祖父母の養子となりました。理由は、家(仏壇)を継ぐ男性が欲しかったというものです。沖縄ではよくある話です。
それから私は息子として育てられ、私の養父母への想いも実の父母への想いであると思います。だからと言って実父母と疎遠だったというわけではなく、一歩離れたところから見守られているという感じでした。
2020年2月16日の養母が亡くなるまでの養父と養母の関係性は悪くありました。私からすれば晩年仲が悪かった認識でありますが、実母曰はく「あなたが産まれてから養父の乱暴は収まり、乱暴者であることを忘れていた。」ということです。私が結婚して実家を遠のくと同時期に実母と揉めて同居を解消したこと、養母と仲が悪くなったことで何となくの合点がいきました。
12月18日
実母より19時頃、電話がありました。
「ヘルパーより、父(養父)の体温が34度に下がり意識混濁としていると連絡を受けた。」
私は妻と相談して翌日、家族で実家へ帰省することとしました。大事な業務が翌日に控えていましたが、無理をしてでも行く必要があると判断しました。
12月19日
実家ではベッドで横になった養父とヘルパーがいました。養父は意識混濁でせん妄というよりは昏蒙状態でした。呼びかけには反応せず、独り言を呟いている状態でした。内容は、”沖縄そばには、’そば’と呼んではいけない時期があった。”というものでした。それは私が中学生の頃、養父母と外食に出かけた時に話してくれたものでした。もしかすると養父はそれとは違う場面にいたのかもしれません。でももし家族で食事をしたあの場面を心地が良かったと認識しているのであれば、嬉しいなぁと思っていました。
12月20日
養父の様子を見に行くと変わらず意識混濁していました。何度も呼び掛けている内に何とか反応を返すようになりました。次第に意識がハッキリしていきました。家族の呼びかけは良いものなのでしょうか。そうであれば何故、家族を乱暴にして邪険にしていたのだろうか。そうでなければ周りにヘルパーや看護師だけでなく家族もいたのではないだろうか。何年も家族に会わない生活にならなかったのではないだろうか。それとも家族が合わなかったのだろうか。いろいろな考えが反芻していました。
そんな私の前には、家を大事にし家族を大事にしなかった者の晩年がありました。
12月21日
佐賀に戻ることとしました。仕事が忙しいこともありました。養父がご飯を食べられるようになったこともありました。この対面が最期になることを覚悟しつつ佐賀に戻りました。
その後
私が佐賀に戻ってからは、養父は食事を完食するまでになったとのことでした。養父がまるで抗っているように思えました。
それから1週間後、12月27日 養父は93歳で死去しました。
後日談
家族の危篤で仕事を休めたことは良かったです。前職では仕事を休むことは無理でした。
私の妻も息子も死去前の養父と対面できました。息子は今でも養父と会ったこと、死去したことを話します。
私はこれ以上ない対応が出来たと考えています。